即興演奏のブログ
     

即興演奏の仕方

2006年ぐらいから、即興演奏というものを始めているけれど、どうやって即興演奏をするのか、即興演奏の方法みたいなことを書いたことは一度もなく、少し書いてみようかという気になった。

といっても、基本的に抽象的なことしか書くことはできないと思っている。人が即興で何をどのようにするかということは、人それぞれなので、何か決まったことがあるわけではない。

ピアノの即興といえば、ハーモニーに乗せて旋律を奏でるというようなことを即興ですることだと、一般には思われるだろうけれど、それ以前のもう少し本質的で抽象的なレベルでかなりざっくりとしたものだが、私が考える即興演奏の方法や指針となるようなことを以下箇条書きで書いてみようと思う。

何となくそれはめんどくさい、と思われるようなことはやらない。

このめんどくさいというのは、やる気のあるなしというカテゴリーというより、既存の理論や、既存の音楽や演奏はこうあらねばならぬというところを、参照しようすることから生じるそれと考えられるだろうか。また、それを含めためんどくささ全般といった感じ。

この「めんどくさいことはやらない」、これは即興において指針としてもよいぐらいと思うが、多少の匙加減はあってもよいかもしれない。後に述べる「音楽について何を知っているか」の項目とも関係してくるが、即興演奏においてめんどくさいことはやらないということは、自分自身に向き合うという方向にベクトルが向いていく可能性が考えられる。

自分の手と耳が、鍵盤を前にして音楽の何を知っているかについて向き合うことになる。いずれにしろ即興であれば、自分自身に向き合うというベクトルは生じるだろう。もしそれを避けるなら、即興という概念自体が本当の意味では生じないかもしれない。

その自分自身と向き合う中から、音楽というものの在り方をつかんでいくことができれば、それは意義深いだろう。それが即興だ。同時に、手と耳が、より一般的な意味での音楽の在り方を参照するといった方向で、音楽について知っていることを増やしていくということも、必要と感じたらそれもあってもよいかもしれない。

やる気のあるなしは、どうでもいい。

ピアノの即興で考えるなら、まず椅子に座る気力があればよい。ピアノの即興で考えることがあるとすれば、椅子に座ることぐらいだろうとは思う。あと付け加えるとしたら、手を鍵盤の上に置くことぐらいだろうか。

暇なときに弾いてもいいし、忙しくていま即興どころではないというときに、こういう時こそ心を落ち着けて即興にいそしむ、など考えずに、まったくやる気のないままに、いま即興どころではないと本底から考えながら、なおざりに心ここにあらずで弾いてもいい。およそ即興を前にしては、ちゃんと弾こうとするか、いい加減に心ここにあらずで弾こうとするかといったことは、かなりどうでもいいことである。とりあえず手を動かせばいい。

即興は、気が向いたらやったらいいし、気が向かなければやらなくていい、そんな道理も通らないだろうか。気が向かないからといってやってもいいし、気が向くからといってやらなくてもいい。

これらは、即興演奏というものに対するある種の固定観念から、多少書いておく必要も感じたが、やる気がなくてもとりあえず手を動かすというのは、人の仕事、制作等全般において普通によく言われることである。

いずれにしろ即興は人に基づく。その人が、どんな状態であろうとも。

音楽について何を知っているか。

そうはいっても、鍵盤を前にして何か弾こう音を出そうとするならば、音楽について、自分の知っていることを弾くしかない。それしかない。そして、音楽について知らないという人も、まず知っておくべきことは、鍵盤を押し下げれば音が鳴るということだろう。あとは、それぞれの音の関係性で、実際に音を出してそれを確かめて見ることができる。

まず、なぜ即興をするのか。それは、あるものについて何か自分の知っていることがあるからだろう。「知らないものを即興する」とは、概念として生じ得ないのではないだろうか。知らないものを即興しようとする意味やモチベーションを思考することは難しい。

先の項目「めんどくさいことはやらない」とも関係してくるが、「即興しよう」と思うことの根本は、何かを知っていることである。何かを知っていることがそのとっかかりとなるだろう。

このように考えてくれば、先に書いた「鍵盤を押し下げれば音が鳴る」という知識も活きてくるだろう。「即興する」とは、こういうことだと思う。

ピアノにはダンパーペダルがあるので、その即興はペダルを踏みっぱなしにすれば指一本でかなり自在に旋律、ハーモニー等、音響を奏でることができる。指一本でド、ミ、ソ、と和音を鳴らすことぐらい造作もない。つまりピアノの即興に、指の技術、及びピアノの演奏技術そのものはいらない。

すなわち、即興は技術でするものではない、と言える。このことをベーシックに、あと問われるのは、音楽について何を知っているか、ということになる。

録音する。それを(多少は)聞く。

自分が即興でてきとうに弾いたものを録音しておいて、あとで聴くというのは有効であり得る。案外この即興を録音するということの意味や意義は言語化しにくいところがあるが、この録音についても書いてみよう。

即興を弾きながら聞いているのと、それを後からあとから録音で聞くのとでは、まったく別な印象をしばしば持つもので、弾くと聞くとの間には大きな壁がある。このことは、作曲された音楽作品の演奏よりも、自分で即興で弾いたものについて特に強く感じられるものではないか。

録音をするというのは、先の指針で言えば、少々面倒なことかもしれない。別に録音しなくとも即興はできる。録音されたもの、その音源そのものは生成物であって、即興そのものではない。その即興そのものではない生成物のために即興するというのは、本末転倒ともいえる。

しかしそれは、自分が何を弾いていたかのフィードバックを与えてくれるだろう。自分が即興で何を弾いていたかということを、後から知る。それは自分の中の即興というものにおいて何であるだろうか。先の「音楽について何を知っているか」に関連して、自分がどのような即興をするかということを知っていることは、即興をするということの取っ掛かりとなり、または基礎となるだろうか。

即興の基本は、何かを知っていることと述べた。Youtubeで見かけるピアノを弾く猫たちは、鍵盤を押さえれば音が鳴るということを「知っている」のである。だから即興が可能だ。

この考えに基づくなら、録音によるフィードバックは、即興の原理に基づいて、よい循環を促すと考えられるだろう。また、この「知っている」は視覚、聴覚、触覚等によるマルチモーダルなものであるだろうし、また「知っている」ことがらに基づいた行動可能性を含みとして持っているような、自分自身の存在に浸透した「知っている」であり得るだろう。

とはいえ、このフィードバックが何か良い効果をもたらすであろうことは、何か当然のことのようでもある。あえて書くべきことだろうか。ここで言及すべき要点は次のことである。

即ち、この「何かを知っている」という即興の原理と、フィードバックを積み重ねるということとは、特に何かうまくフィットするところがあるのではないか。自分の即興を、自分の中に持つということにおいて。それは「即興」という枠組みをも越えたある種の豊かさ(「知っている」という概念に紐づけられるような)を人にもたらすのではないか。

これが先に言語化しにくいと述べた、即興を録音することの意義の一つのポイントであると、私の経験から考えている。

まとめ

即興演奏の考え方について述べてみた。かなり抽象的な事柄ばかりであるが、即興について語る場合、あまり限定的な枠を設けるべきではないだろう。既存の音楽理論に基づいて即興で音を奏でることが、「即興演奏ができる」ということだという考えはとっていない。

楽器で音を出すからといって、それが音楽でなくとも構わないぐらいの立ち位置から、語ったほうが良い。楽器に触れ、音を出し、それを聴く。それだけのことに、音と人との音楽的関わりというものはあるものと思う。

また、枠にとらわれない、即興は自由だ、などと言っても、当人にとって出鱈目と認識されるような内容の音に興じるというのは、面白味のあるものかどうか。そういったことも考えてみるべきだろう。なぜ私が、なぜ即興を、するのかという、モチーフ的な概念、要素は、即興における原理、前提的な要素として、避けて通れないと考えられる。それゆえ、即興の基礎として、何かを「知っている」ということを提案し得る。何か当人にとっての「理解」を前提としていることである。

「鍵盤を押し下げれば音が出る」というようなことはそのもっとも基本的なものだが、音や、音楽には、どのようなものがあるか、またその音や音楽について、どのような理解を持つかというのは、まったくもって人それぞれである。だからまったく人それぞれの「知っている」があって、それにもとづく人それぞれの即興があればよいと思うのである。